ポーランド侵攻に関しては、現在までも一般に流布しているいくつかの誤解がある
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「ドイツ軍の戦車に騎兵で突撃をかけた。」: ポーランドは11個の騎兵旅団を有し、騎兵隊はエリートと扱われていたが、当時はドイツ軍やソ連軍など他の軍隊でも騎馬部隊が編成され、馬はどの国でも広く使用されていた。ポーランド騎兵隊 (Kawaleria) にはたとえば「槍騎兵連隊」などの名称がついているが、実際のところそれらの部隊には75ミリ野戦砲、軽戦車、偵察用豆戦車、37ミリ対戦車砲、40ミリ対空砲などの近代的で実践的な兵器が装備されており、ドイツ軍の戦車、塹壕歩兵、砲兵に対しては馬で肉薄するいわゆる「騎兵突撃」をかけたことは一度もなかった。ポーランド騎兵隊の騎馬隊は通常、ドラグーン(竜騎兵)のような機動歩兵部隊または偵察部隊として活躍し、突撃攻撃は地上の歩兵に対してのみ稀に行われた。たとえば9月9日、北部の2つの街リプノとファストゥフの間で、街道の村々に放火しながら移動していたドイツ軍歩兵大隊の隊列に側面の丘の上から「スヴァウキ」騎兵旅団に所属する第1槍騎兵連隊と第3軽騎兵連隊が味方の機銃掃射による支援を受けながら突撃をかけ、すばやく肉薄してサーベルとランスで戦い、混戦の中銃剣で応戦する敵を大混乱に陥れ、このドイツ軍歩兵大隊を降伏させた。逃げるドイツ兵は同騎兵旅団に属する第2槍騎兵連隊が追撃した。この戦いでポーランド軍は3人の犠牲者を出したが、古くから伝え聞く「ポーランド騎兵の突撃」を実際に目の当たりにして恐怖のためにほとんど発狂していたドイツ兵200人を捕虜にした(ドイツ兵にはかなりの犠牲が出た)。「ポーランド騎兵がドイツの戦車に騎兵で突撃をかけた」という作り話は、クロヤンティの戦いでの一つのエピソードをきっかけに広まった。開戦直後の1939年9月1日、ポメラニア地方のクロヤンティ村郊外の森付近にいたハインツ・グデーリアン将軍指揮下のドイツ第14装甲軍団の左翼(北側)に展開していたマウリッツ・フォン・ヴィクトリン中将率いる第20自動車化師団の第76歩兵連隊に対し、カジミェシュ・マステラシュ大佐率いる第18軽騎兵部隊が「騎兵突撃」をかけ、この森を確保した。それまでドイツ軍の大群に包囲されていたポーランド第1ライフル大隊と「チェルスク」国家防衛大隊はこの戦闘の間にうまく包囲網を突破して退却することができ、ポーランド側の当面の目的は達成された。グデーリアンの回想によると、このときのポーランド騎兵の「突撃」でドイツ兵は恐怖のあまりパニックに陥り、援軍が介入するまで第20自動車師団はそれ以上の進撃をためらい、再編成に数時間を費やし、戦術的な一時退却まで検討していた。グデーリアンは装甲兵員輸送車で援軍を送り、機関銃による攻撃を行ったが、これに対しマステラシュ大佐の騎兵はこの森から即座に脱出した。この日現地で行われた一連の戦いに参加した800人のポーランド騎兵のうちで29人が犠牲になり、退却する際に幾人かの遺体は現場に残された。翌日、ドイツの複数の従軍記者とイタリア人の2人のジャーナリストが現地を訪れ、ポーランド人の死体と死んだ馬、それと(実際は一連の戦いが終わった後になってやってきた)ドイツ軍戦車を見せられた。そこでイタリア人ジャーナリストの1人が記事を書き、サーベルとランスでこれらのドイツ戦車に突撃したポーランド騎兵の勇敢さと英雄的行為について詳述した。むろんこれは本当の話ではない。